近代産医術のみなもと、「賀川玄悦」
五条通と壬生川通の交差点を北へ一筋目の路地を右折すると、玉樹寺の山門脇に「産科鼻祖賀川玄悦先生之墓所」の石碑があります。近江彦根出身の「賀川玄悦(1700-1777)」は、玉樹寺より東の「一貫町」にて、古鉄器商や鍼灸・按摩で生計を立てつつ独力で古医方を学びました。貧しい妊婦のそばで体験と探究を重ね、難産の母体の命を救うための道具と手術を考案し、1750年頃には世界で初めて「正常胎位」を発見するなど、賀川流「回生術」の名声は各地で高まり数千という門弟から名医が生まれました。
玄悦は究めた産医術を、明和2(1765)年に『産論』四巻にて発表。文才の不足した玄悦の代筆を若き儒学者の皆川淇園が引き受け、産婆や祈祷に頼る従来のお産を批判し、女性を苦しめる「産椅(さんい)」や腹帯などの古い迷信や習慣を廃絶するよう強く訴えました。
玄悦は後に徳島藩医に取り立てられてもなお、花街の島原の北側「一貫町」に住み、生涯を終えました。玉樹寺の境内には玄悦と賀川家の墓が並び、また没後200年に建立された「賀川玄悦顕彰碑」と、その業績を称えて詠んだ俳句「産論の月光雲をはらひけり」が刻まれた句碑があります。この句碑の作者は、高浜虚子に師事した明治生まれの高名な俳人で、東京の産科医師でもありました。次の誰でしょう。
▲ 玉樹堂
(1)水原秋桜子
(2)正岡子規
(3)河東碧梧桐
この問題は、京都検定1級をお持ちで、区内にお住まいの河本俊子さんに出題していただきました。
正解は市民しんぶん下京区版「下京のひびき」令和5年10月15日号に掲載します。
2023.09.26